2024年04月18日(木)

翻訳できない わたしの言葉|ウォールテキスト

【ごあいさつ】

東京都現代美術館では、日本における多様な言語のあり方や、言葉を発する・受けとめるという行為について考えるグループ展「翻訳できない わたしの言葉」を開催いたします。本展は、個人の中に蓄積されてきた経験の総体から生まれ、一人ひとり異なる「わたしの言葉」に、静かに耳を傾けようとするものです。

本展で紹介するのは、ユニ・ホン・シャープ、マユンキキ、南雲麻衣、新井英夫、金仁淑の5人のアーティストの作品です。単一言語主義が強い社会の中では、「わたしの言葉」を表すことが難しいこともあります。しかし彼らの作品は、それぞれの「わたしの言葉」に真摯に向き合っています。他言語を学ぶことがそれを生み出した人々の文化や歴史を学ぶことであるように、誰かの「わたしの言葉」を翻訳して別の言葉に置き換えることなく、そのまま受け取ることが、互いの理解につながるのではないでしょうか。この展覧会を通じて、自分とは異なる誰かの「わたしの言葉」を大切に思い、そして自分自身の「わたしの言葉」を再考する機会を作りたいと思います。
最後になりましたが、この展覧会の開催にむけてご尽力をいただいた5人のアーティストの皆様をはじめ、暖かいご支援を賜りました関係各位に、心より御礼申し上げます。

東京都現代美術館


【展示室入口】

あなたの「わたしの言葉」はどんな言葉ですか?

人はみんな、ちょっとずつ違う言葉を話しています。
出身地や暮らしたことのある土地の方言やアクセント、
学校や職場で流行っている言い回し、
家族や友達同士だけで通じるボキャブラリー、
つい口から出てしまう口癖など、
個人のなかに蓄積されてきた経験が違うため、
みんなそれぞれの「わたしの言葉」があるのです。
誰と話すかによって、言葉が変わることもありますね。
複数の言語を使い分けることもあります。
(方言と共通語の使い分けもあります)
言語によらないコミュニケーションを大事にする人もいます。
それらも含めて、「わたしの言葉」です。
この展覧会では、一人ひとりの「わたしの言葉」を尊重したいと考えています。


【グラウンド・ルール】

展覧会が、すべての人にとってより安全な場であるために、この場にいる全員の協力が必要です。

感想を言葉にすることは、作品鑑賞においてとても大事なことですが、自分の発言が、アーティストを含め作品に登場する人や、自分とは異なる属性の人を傷つけるものになっていないか、考えてみましょう。

写真・動画撮影をお断りしている作品もあります。アーティストの意志を尊重してください。
フラッシュバックやパニックなどの不安がある時には、カームダウン・クールダウンスペースや、救護室などをご利用ください。
展示室内の解説テキスト等は、ウェブサイトにもアップしてあります。
翻訳、読み上げ、拡大、白黒反転などご自身が使いやすいようにご利用ください。こちらのQRコードからどうぞ


ユニ・ホン・シャープ

【ユニ・ホン・シャープ 作品解説】
映像作品では、女の子が親に「Je crée une œuvre(私は作品を作る)」というフランス語のフレーズの発音を教えています。左奥の鏡に映りこんでいる親が、ユニ・ホン・シャープ本人です。日本語を第一言語として育ったアーティストは、フランスで制作活動をしていますが、「フランスで活動していくのに、『私は作品を作る』くらい正しいフランス語で発音できなくてどうするの!」と叱られた経験から、この作品を作りました。「正しい」発音でなければ、その言葉は「わたしの言葉」にならないのでしょうか?
《旧題 Still on our tongues》は、沖縄とフランスの言語政策に取材した作品です。沖縄には、本土の言葉を習得するために、地元の言葉を使った児童の首に罰としてかける「方言札」というものがありました。フランスのブルターニュ地方では、フランス語ではなくブルトン語を話してしまった児童の首に木靴などをかけていたといいます。この二つの事実から、ブルターニュ地方のクッキーを方言札の形に作り、食べることにしました。クッキーのレシピは沖縄の言葉で書かれています。

【ユニ・ホン・シャープ プロフィール】
アーティスト/東京都生まれ。2005 年に渡仏、2015 年にパリ=セルジー国立高等芸術学院を卒業。現在はフランスと日本の二拠点で活動。アーカイブや個人的な記憶から出発し、構築されたアイデンティティの不安定さと多重性、記憶の持続をめぐり、新しい語り方を探りながら、身体/言語/声/振付を通じてその具現化を試みる。

【ユニ・ホン・シャープ 作家のメッセージ】
タイトルのご相談

こんにちは、みなさん!
実は、作品のタイトルについて、ご相談があります。
Still on our tongues》というのが、2022年に沖縄でこのプロジェクトを始めたときのタイトルです。
これの何がひっかかるのかというと……英語なことです。

別に、英語が嫌いなわけではありません(特に好きでもないけど)。当時は「まあ、英語でいっか!」と、適当に決めた覚えがあります。世界に英語が分かる人は多そうだし。あと、この作品のなかには「言葉」と「舌」が登場しますが、なんと「Tongue」はその両方を意味するんです。なので、その点はとても気に入っています。実は「Langue」(フランス語)もそうで、最初にタイトルについて考えたときは、確かフランス語から発想しました。

しかしある日、キュレーターの八巻さんから「タイトル、ほんとに英語でいいんですか?」と確認され、はっとしました。よく考えてみると、言語政策がテーマでタイトルが英語って、沖縄とアメリカとの歴史を考えると、筋が通ってないのでは。でもそうなると、日本語も、フランス語も、使えないかも。とにかく、「英語でいっか!」なんてノリじゃ決められなさそう……。

じゃあ、ブルトン語で書くのはどうかな。そう思いついて、さっそく試してみました。
オンライン自動翻訳ではフランス語ブルトン語しか見つからなかったので、まず、《Still on our tongues》(英語)から《Encore sur nos langues, toujours》(フランス語)にし、それを《C’hoazh diwar-benn hor yezhoù,bepred》(ブルトン語)にしてみました。

でも、ぜんぜん読めない!

そもそもブルトン語は、いままでのわたしの人生で使ったことがない言葉だったのでした。

あと、ブルトン語を使うならウチナーグチも併記したいけど、どちらの言葉も発音に自信ないし、タイトルがあんまり長すぎると忘れちゃいそうだし、「自分の作品のタイトルをちゃんと言えないのって、アーティストとしてどうなの?」とか、また叱られそうだし……。

そういうわけで、展覧会開幕までタイトル案が浮かばず、いまはとりあえず《旧題 Still on our tongues》となっています。やっぱり、ブルトン語とウチナーグチに訳して、会期終了まで練習するのがいいかな?
それか、ふたつの言語のあいだみたいな言語に翻訳するのも良さそう~と思っています。
でも、そんな言語あるんでしょうか。

みなさま、もしいい考えがあったら教えてください。

そして、クッキーの味は、レシピが何語でも変わらないはずなので、ぜひ作ってみてください。

形が方言札なのでびっくりしたかもしれませんが、もちろん、方言札を賞賛しているわけではありません。言葉が消されそうになる/言葉を消そうとするという、取り返しのつかない出来事のあとにどう生きていくか、という緊急さに応答して想像した、楽しい遊びのようなものです。クッキーをつくって、食べて、消化して、みんな元気に生きていければ良いな、と願っています。

それでは、お元気で。

ユニより


マユンキキ

【マユンキキ 作品解説】
アイヌ語で「(聞き手を含まない)私たちが話す」を意味する《イタカㇱ》というタイトルのこの作品は、2つの対話を収めた映像作品と、アーティストのセーフスペースとなる空間、そしてその空間に入るためにパスポートにサインする行為から構成されています。映像や空間は、マユンキキ自身が、自分を作り上げてきたもの・人々・言葉を丁寧に提示するものです。それは、ステレオタイプな「アイヌらしさ」ではなく、個人としての姿を通して、一人のアイヌであるマユンキキに出会ってほしいという意図によります。
日本のマジョリティである和人(アイヌ以外の日本人がアイヌと区別するために用いた自称)は、明治期にアイヌを日本国民に統合し、教育や生活様式などの同化政策を行ってきました。そのためアイヌの存在は、和人中心社会の中で不可視化されてきたのです。不可視化や、言語が消滅に追い込まれる状況に抗する手段は、自分の言葉で発言し、対話を続けることです。しかしその時に、日本語や英語など覇権的な言語を使わざるをえないことについても、立ち止まって考える必要があります。

【マユンキキ プロフィール】
アーティスト/北海道生まれ。現代におけるアイヌの存在を個人の観点から探求し、映像やインスタレーション、パフォーマンスなどによって表現している。アイヌの伝統歌を歌う「マレウレウ」「アペトゥンペ」のメンバーであり、2021年からはソロ活動も開始。国内外のアートフェスティバルにパフォーマンスや展示で参加多数。


南雲麻衣

【南雲麻衣 作品解説】
3つのエリアに分けられたカーペットの上をぐるぐると移動して、モニターに映る会話の様子を見てみましょう。四角いテーブルでは、子どもの頃の思い出について、母親と音声日本語で語り合っています。レゴブロックの置かれた丸テーブルでは、家族とのコミュニケーションについて友人と日本手話で話をします。そして最後のテーブルでは、パートナーと一緒に料理をして食べながら、音声日本語と手話でおしゃべりを楽しんでいます。南雲麻衣の日常は、こうして言語と言語の間をさまよう旅を繰り返しています。
幼児期に聴覚を失った彼女は、音声日本語を母語として育ち、今は日本手話を使うろう者としてのアイデンティティを獲得しています。「複数の言語を持つと、本当に帰属しているのはどちらなのかを常に問われていると感じる。」と南雲はいいます。音声言語と視覚言語をどちらかに決めなければならない二項対立として考えるのではなく、そのあわいで揺れながら選択をし続けることは、アーティストにとって単一言語主義へのささやかな抵抗の実践なのです。

【南雲麻衣 プロフィール】
ダンサー、パフォーマー/神奈川県生まれ。幼少時からモダンダンスを学び、現在は手話を活かしたパフォーマンスや演劇など、身体表現全般に活動を広げる。カンパニーデラシネラ「鑑賞者」出演(2013年)、百瀬文《Social Dance》出演(2019年)など。音声言語と視覚言語を用いた複数言語の「ゆらぎ」をテーマにし、当事者自身が持つ身体感覚を「媒介」に、各分野のアーティストとともに作品を生み出している。また、言葉を超えた感覚を共有し合うワークショップも行っている。


新井英夫

【新井英夫 作品解説】
新井英夫は、元気に表現できる人に限らず、障害や高齢や生きづらさから言葉を表出しにくい/身体を動かしにくい人たちと向き合う、身体表現ワークショップを手がけてきました。決められた動きに体をあわせるというものではなく、人それぞれが心地よいと思う動きや美しさを尊重し、その人らしさを丸ごと肯定するものです。その源泉を新井は、脳を介して言葉にする前にだれの体にも存在する「からだの声」と呼びます。この展示室では、新井が影響を受けた身体メソッド「野口体操」の言葉や、ワークショップ参加者のエピソードなどとあわせ、微かな音に耳を傾けたり、体の動きや重力を意識したりして、「からだの声」を意識するワークを提示します。
また、日記を記すようにその日その場所の記憶を即興で踊って残すダンス映像は、作家本人の「からだの声」を伝えてくれます。その試みは、全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病(ALS)にかかってからも続けています。
展示室の一角には、新井専用の駐車スペースがあります。アーティスト本人が展示室にいる時には、視線で文字を決定する方法で会話を楽しんでみてください。

【新井英夫 プロフィール】
体奏家、ダンスアーティスト/埼玉県生まれ。野外劇や大道芸ダンス公演などを行う身体表現グループ「電気曲馬団」を主宰し活動する傍ら、自然に沿い力を抜く身体メソッド「野口体操」に出会い、野口三千三氏から学ぶ。その後ソロ活動に転じ国内外でダンスパフォーマンスをしながら、日本各地の小中学校・公共ホール・福祉施設等でワークショップを展開。2022年夏にALS(筋萎縮性側索硬化症)の確定診断を受けた後も、ケアする/される関係を超越した活動を精力的に継続している。

【新井英夫 展示テキスト】
「からだの声」に耳をすます
言葉で自由に自分を表現することができにくい人たちと、たくさんワークショップをやってきました。その人たちとは言葉以外で、例えば動きとか音とかで、はっきりと音声や文字などの言葉になる前の「からだの声」みたいなものを直接やりとりしていた気がするんです。そしてその対話は言葉だけよりも、ときにとても豊かだった。その人らしさがじかに伝わってくるというか。言葉にしちゃうと切り捨てられちゃう部分が丸ごと伝わってくるというか。

言葉がどこから生まれるのか?脳や意識だと言う人もいるけれど、それ以前に言葉になる前の「からだの声」が、誰のからだの中にもある気がする。でも忙しかったり、頭でっかちになったりしてると、自分のも他人のも「からだの声」は聴きにくくなってしまう。

からだを奏でるとは?
20代の頃仲間と演劇活動をしていました。はじめはセリフを喋っていたけど、ただ人が立っている、重力を感じる、歩く、出会う、触れ合う。そういうことを丁寧にやっていると、セリフ(言葉)がなくても豊かな「物語」が、からだから即興的に生まれてくることに気づいたんです。この発見は、当時出会って今も続けている「野口体操」という身体メソッドから深い影響を受けてます。それで劇団からダンス分野のソロ活動に移ったときに、自分を紹介するしっくりくる名称として「体奏家」と名乗るようになりました。赤ちゃんから高齢者まで、障害のあるなしに関わらず、いろんな人とやっていることも、同じく「からだの声」に耳をすまして「からだを奏でる」ことなんです。

《即興ダンス日記 before ALS 2016-2021
言葉で日記を書く代わりに、その時その場所での「からだの記憶」を留めておく方法として「その場と即興で踊る」ということをよくやってきました。湿気や匂いや地面の凹凸など、写っていない感覚も思い出されます。2016年から2021年の記録です。

鈴を聴く/鈴に訊く
「ゆっくり」とか「しずかな」状態だと「ちいさなこと」に気づきやすい。新幹線でびゅんと移動するのは便利だけれど、のんびり散歩するのもいいもんでしょ。道端の小さい花に気づけたりとか。野口体操では『豊かさとは「ちょっと・すこし・わずか・かすか・ほのか・ささやか・こまやか…」というようなことを「さやか」に感ずる能力から生まれる』と言っています。自分が奏でる鈴を「聴く」ことは、自分の「からだの中」を鈴に「訊く」ことに似ていると思うんです。

ゆらゆら水袋のわたし
野口体操とはどんな体操か? からだの力を抜いて、重さ(重力)にゆらゆらと身を任せる。水の流れや風の動きなど、自然の原理がお手本。からだの力を抜いてゆらゆらと揺れに任せていると、自分の「からだの声」が聴こえてくるんです。野口体操の創始者 野口三千三(のぐちみちぞう)は「生きている人間のからだは皮膚という生きている袋の中に液体的なものが入っていて、その中に骨も筋肉も内臓も脳も浮かんでいる」と表現していました。
寝た姿勢でなるべく筋肉を休ませて静かに揺すったり、揺すってもらったりすると「水袋のわたし」を実感できる。太古の地球の海で膜に包まれた液体として生まれた生命と、今このわたしがつながっている…なんて想像してみるのもおもしろい。

紙を奏でる
友愛学園(青梅市)という障害児入所施設で2015年から2023年まで子どもたちとワークショップをやっていました。部屋の片隅でずっと座っている男の子シュウジくんがいたんです。よく見ると、紙を耳元で細かく手でちぎって、その音を楽しんでいる。彼の足元には繊細で見事な紙吹雪の山ができていました。その場にいた他の子どもたちとスタッフの大人たちとみんなでやってみた。シュウジくんの発見したオンガクビジュツを味わった。みんなが彼と出会いなおした忘れられない日になったんです。

紙を揉んで「ふわっ」をつくる
学校体育って勝ち負けや成績を競わされることが多いでしょ。それが抜けずにワークショップでも精一杯頑張っちゃう人が多い。みんなが頑張るモードだと、力の弱い人や障害のある人の「からだの声」が埋もれてしまう。そんなとき、学校だと子どもたちに手で揉んだ薄い和紙にそっと触れてもらうんです。すると子どもたちのからだの感じがふわっと変化する。言葉でなくモノだから直接からだに通じるコトがあるんですよね。「あったか〜い!」「もふもふ〜」とかいう言葉が、ほどけたからだから生まれてくる。

手の花をつくるプロジェクトのこと
ALSになってから、同じ地域に難病と向き合いながら在宅で暮らしている方たち、ご家族がかなりの数いらっしゃることに気づいた。「あ、お仲間がたくさんいるんだ」って。でも僕もその人たちも自由に外出できない、他者との関わりが家族と医療介護関係者に限られがち。下手すると世の中に存在しないことにされかねない。
そこで毎週ウチに来てくれる作業療法士さんと始めたのが、ベッド上で生活しているご本人とご家族や訪問看護師さんらで手で花をつくって表現してもらう「あすか山から花を咲かそうプロジェクト」。自由なやり方でスマホで動画撮影してもらい、それらを集めてひとつの番組に編集してお返しするという往復書簡みたいな形式です。

天井の影のダンス
全身の筋力低下で、私が踊る表現の自由さが限られてきました。ALSでは発症から平均35年で筋力低下から呼吸困難に至り、命に関わるといわれています。現在(発症してほぼ2年半経過)、自立歩行不可、自分の手腕がずしりと重たく動かしにくい状態です。でも寝ている姿勢で骨をまっすぐに重ねて腕を立たせると、筋力にそんなに頼らずとも、腕を保ったり楽に動かしたりできることを発見しました!
この部屋の天井に写っている影絵は、仰向けに寝た私の視点からスマホで撮影したものです。「手でツボミを作って、一輪の花がゆっくりひらく」そんなイメージで動いています。私と一輪ずつ天井に手の影の花を交互に咲かせて踊ってみませんか?

不自由の中の自由
私はALSの避けられない進行により、やがて文字を自由に書けなくなり、自分の発声能力も失うでしょう。でも言葉の不自由さがココロの不自由さと直結するとは限らない。それはワークショップで出会った人たちに私が身をもって教えてもらったことです。そのことが私がこれからを生きる1つの指針にもなっているんです。

ポリ大膜/ぼくのダンスの先生
2011年に東日本大震災と原発事故が起きた後から、小学校の子どもたちとワークショップをした最後に毎回こんな話をしていたんです。人間が生きているのは、動物や植物のいのちを食べているから。植物が生きているのは、光とか水とか空気があるから。では、光や水や空気にいのちはあるのかな?と。子どもたちは「ある」という。
「ぼくもね、光や水や空気も生きている、いのちがあると思うの。その証拠に、みんなに空気や光がダンスを踊ってるのをこれから見せます。そして実はこれがぼくのダンスの先生なの…」と話して、体育館の床に寝転がった子どもたちの頭上に、ポリ大膜をはためかせるんです。波とからだが交感して共鳴して「うわ〜」と気持ちが揺さぶられる…。で、この展示会場の「天井で踊っている」のがソレです。

《即興ダンス日記 with ALS 踊ルココロミ2022-
私が進行性難病ALSに罹患して以降、2022年から最近まで約2年間ほどの即興ダンスの動画を時系列で並べてみました。すべてスマホの一発撮りで、自撮りか同行していた人に撮影してもらったものです。

わたしはわたしの中の「からだの声」を大切にしたい。
それと同時にあなたの中の「からだの声」を大切にしたい。
だれもが「からだの声に耳をすます」ことから、自分と、他者とに出会い直す。
たがいに唯一無二の代替不可能な存在として。 わたしはそこに希望と可能性を感じています。

来てくださってありがとう。またお会いしましょう。
新井英夫


金仁淑

【金仁淑 作品解説】
この部屋に展示されているインスタレーション《Eye to Eye》には、滋賀県にあるブラジル人学校サンタナ学園に通う子ども達と、彼らを見守る大人達が登場します。ヘッドフォンからは、アーティストと子ども達による、時に通訳を介しながらのブラジルポルトガル語と日本語による対話の声、そして学校について語る校長先生の日本語の声が聴こえてきます。(対話の書きおこしも配布しています)そして8面の縦型スクリーンには、子ども達のビデオポートレートが次々に映し出されます。彼らと目をあわせて見つめ合ったり、彼らがこちらを見ていることを感じたりしながら、空間を歩き回ってみてください。
暗幕の先には、同じ子ども達が、言葉や文化の違いによる触れる機会が少なかった地域社会に、アーティストと一緒に出逢いにいったプロジェクトから、映像作品とアートブックを展示しています。
金仁淑は、作品の中に登場する人物が、どのような状況に置かれているかではなく、個性や魅力に着目し人として出逢うことに主眼を置いています。丁寧なコミュニケーションを積み重ねて制作される作品は、他者や自分自身に多面的に出逢うためのプラットフォームなのです。

【金仁淑 プロフィール】
アーティスト/大阪府生まれ。韓国への留学を機にソウルでアーティストとして活動を始め、現在ソウルと東京を拠点に制作活動を展開。「多様であることは普遍である」という考えを根幹に置き、「個」の日常や記憶、歴史、伝統、コミュニティ、家族などをテーマにコミュニケーションを基盤としたプロジェクトを行い、写真、映像を主なメディアとして使用したインスタレーションを発表している。


【ラウンジ】

「わたしの言葉」を大切にするために

言葉は権力や支配と結びつき、不均衡な関係を生むことがあります。
近代国家では、「標準語」以外の言葉(方言も含みます)は
価値が低いものとされました。単一言語主義や国語の乱れという
考え方は、一つの「正しい」言語を想定しています。
いわゆる植民地支配においては支配する側の言語が強制され、
現在でも公用語として強い立場を保っていることが多いです。
言葉の違いが民族や社会階層のステレオタイプを生む事例も
後を絶ちません。まずはそのことを認識する必要があります。

また、言葉をめぐる漠然とした思い込みを手放すことも重要です。
すべての言語が文字や音を使うわけではありません。「言語が
思考や認識の枠組みを決定する」という考え方もありますが、
思考に言語を使わない人もいます。言葉を巧みに操れる人だけが、
主張する権利を持っているわけではありません。話者数が多い
言語が偉いわけではありません。ネイティブスピーカーだけが、
その言語を特権的に所有しているわけではありません。

そうした旧来の構造から自由になるための考え方として、
「言語権」というものがあります。先住民族や言語的少数者、
移民も含め、すべての人が自分のアイデンティティに関わる
継承語を学んで使用する権利、そして住んでいる土地の公用語を
学ぶ権利を指します。人はその言葉を大切にする権利があるのです。

あなたが使っている「わたしの言葉」について、まずはあなたが、
大切に思ってみてください。そして他の人の「わたしの言葉」が
尊重されていないと感じた時、どうすればいいのか、
一緒に考えましょう。

*当館の展示解説は、日本語と英語のバイリンガルで用意しています。英語は世界で話者数が最も多く共通語として使用されている言語であり、多様な来館者を迎える当館で有用であると考えるからです。しかし英語を共通語として使用するということについては、母語話者とそれ以外の格差、また共通語として力を持つに至った歴史についても心を留める必要があります。


【ガーランド】

「わたしの言葉」のガーランド

あなたの「わたしの言葉」の
エピソードを教えてください。

自分では同じように発音できないけれど、
記憶に残っている誰かの話し方はありますか?
住んでいる所やルーツのある地域に
どんな言葉があるか知っていますか?
「それ、方言だよ」と言われたことはありますか?
つい使ってしまう口癖はありますか?
家族や友達同士だけで通じる単語はありますか?
意味はわからないけれど、響きが好きな言葉はありますか?
いつか歌ってみたい、異言語の歌はありますか?

*カードの文字は、この場で読んでお楽しみください。写真は撮らないでください。


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