2024年04月18日(木)

翻訳できない わたしの言葉| アーティストインタビュー

展示室内ラウンジで配布しているハンドアウトのテキストデータです。翻訳、読み上げ、拡大、白黒反転など、ご自身が使いやすいようにご利用ください。

Below is the text data from the handout available in the lounge in the exhibition gallery. The online text can be translated, read out loud, enlarged, have their colors inverted from black to white, etc. as you like.

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それぞれの作品をつくったアーティストに、作品や言葉についてインタビューをしました。作品を鑑賞する際の補助線として、どうぞお役立てください。「ラウンジ」やカフェなどで休憩したあとに、再入場することもできます。(当日有効の本展チケットが必要です。)

ユニ・ホン・シャープ

―まずは《RÉPÈTE | リピート》についてお聞きします。制作に至るきっかけは?

7年前、私がフランス国籍を取ったばかりのとき、あるフランス人のアーティストと話していて、「私は作品をつくる」とフランス語で言ったんですが、理解してくれなくて、何回も聞き返されました。ようやく通じたあとで、「あなた、フランス人アーティストとしてやっていくのに、“Je crée une oeuvre”をちゃんと言えないでどうするの」と叱られたんです。それがずっと頭にありました。子どもがふたりいるんですけど、当時10歳だった上の子のメイが、私よりフランス語がうまかったんです。なので、発音を教えてもらおうと思って。子ども相手に長時間の撮影は無理なので、一発録りした5分の作品です。

《リピート》をつくって、私のフランス語はアクセントがあるんだなと実感しました。言葉は筋肉の動きで発音されるじゃないですか。日本語をずっとしゃべっていると日本語の筋肉になるから、日本語の筋肉のままフランス語をしゃべろうとすると、ぎこちなかったり、面白い感じになったりするのかもしれない。たとえば、バレエをずっとやってきた人がいきなりヒップホップに挑戦するみたいな。そういうハイブリッド感が好きなんです。逆に、しばらくフランスにいて、久しぶりに日本に行ったときに「ユニさんの日本語、変」って言われたこともあります。住む場所によって筋肉の使い方は変わっていくのでしょう。

―フランスに行かれたのはいつですか?

大学卒業後です。渡仏前に、3ヵ月くらい付け焼刃でフランス語を習いました。だから、いまもよくわかってないんですよ、文法とか。

―いま、ご自分をフランス人だと思っていますか?

どうなんだろう。私はわりと国籍をドライに捉えていて、いちばん強いパスポートを取ってサヴァイヴしていくみたいな意識がありました。20歳までは朝鮮籍で、それだと旅行が面倒くさいので、家族全員で国籍を韓国にしたんです。両親にとってはたぶんアイデンティティの一大事だったと思います。ただその後いろいろあって、もしフランスで何かあったときに、私は韓国に守ってもらえるのだ

ろうかと考えたんです。だけど、韓国に家族はいないし、韓国語はわからないし、守ってもらう筋合いもあまりない。私にとって強いパスポートはどこのなんだろうと考えたとき、それがフランスだった。日本にしようとは思わなかったんですよね。日本とか韓国とか朝鮮とかが面倒くさくて逃げていた部分もあったので、全然関係なさそうなフランス人になりました。ただ、こないだ韓国に行ったときに、

そんなドライなものでもないのかな、と思う経験をしました。なのでいまは「何人(なにじん)?」と聞かれると混乱しちゃいますね。

―《旧題Still on our tongues》の話を。今回、沖縄でつくった作品を再構成していますが、そもそも制

作することになった背景を教えてください。

ART NAHA」というイベントの公募があったので、何か沖縄でできることはないかと調べるうちに方言札のことを知りました。似たような言語政策がフランスにもあったんです。ブルターニュ地方の「symbole(サンボル)」というものなんですけど。この制度がフランスから沖縄に伝わった、という説を文献で読んだのがきっかけです。ブルターニュ地方にサンボルが登場したのは、19世紀初めで、1960年ごろまで続いたようです。沖縄で方言札が使われたのは、これまでの調査研究によると、1900年代前半から戦後の1970年前後まで。時期によって、日本語を話させた事情は異なるみたいです。たとえば、戦前はどちらかというと本土からの、全国的な国語統一政策によるもの。また、アメリカに占領されていた時代、本土復帰運動のなかでは、沖縄側から進んで「日本人」になるための教育が展開されたと聞きました。

―日本の学校では、ネイティブっぽい英語の発音をすると馬鹿にされるとも聞きます。言葉で異質なものを見つけて排除したい意思かもしれません。

日本の学校の事情がよくわからないんですが、そうかもしれないですね。フランス人は、ちゃんとフランス語をしゃべらない奴は滅びよって思っているはず(笑)。でも、フランスにはたとえば「郊外のアクセント」というのもあります。郊外には移民が多く住んでいて、とくに若者は新しい言葉をつくったり、語順を変えたりしています。いまは郊外に住んでいるので、そういう言葉をよく耳にします。何を言ってるかわかるようになってきたので、私のヒアリングも進歩したのかも。

マユンキキ

―マユンキキさんは幼少期にアイヌ語が身近にあったわけではなく、大人になって学びはじめましたね。そのあたりのお話からしていただけますか?

私が10歳のときに両親が離婚しているんです。母方の実家が旭川の川村カ子ト(カネト)アイヌ記念館なので、踊りや儀式にアイヌみんなで集まる機会が多くありました。でも、父方はアイヌとしての活動をしていない家庭でした。差別がひどいため、父のきょうだいたちはアイヌであることを隠していたいという意識が強かったんです。両親が離婚したときに父方についた私はアイヌのことを知ったり、学んだりする機会を断たれ、そのまま学生時代を過ごしました。その後、私が17歳のとき、東京で暮らしていた姉が北海道に帰ってきて、うちの記念館で働き、踊りや儀式にも出るようになりました。姉とふたりで暮らしていたので、私も一緒に参加しましたが、深くアイヌについて意識することはありませんでした。

23歳になったころ、父方のばあちゃんが、ひいばあちゃんは門野(もんの)トサというんですけど、「門野のばばはアイヌ語がベラベラ話せたんだぞ」と私に言ったんです。それでショック受けたんですよね。自分の近しい人が日本語よりアイヌ語のほうが話しやすい状況をそれまで考えたことがなかったので。ひいばあちゃんにかわいがってもらった記憶はありますが、言葉は覚えていません。ばあちゃんから聞いたのが、「ふだんは日本語を話してるけど、本当は─」というニュアンスだったので、娘や孫たちにアイヌ語で話しかけることはなかったと思います。それで、私が死んだらアイヌ語で話しかけて、ひいばあちゃんをびっくりさせたいという気持ちになり、アイヌ語の勉強を始めました。

もう亡くなってしまいましたが、旭川の親子アイヌ語教室の先生がアイヌで、その方の弟子のようになって2年間みっちりとアイヌ語を教わりました。なぜアイヌ語が話されなくなってしまったのか、自分たちの言語をどうやって取り戻していくか─ということを歴史や権利の話も含めて学びました。ただ、言語を無邪気に学習することができなくなり、やればやるほど苦しくなっていきました。ア

イヌ語を学んでいる私を見たら、ひいばあちゃんから「お前、本当にそれで幸せに生きてるのか?」と問われるんじゃないかと思って。だから、「幸せです。アイヌ語を選んでよかったと思っています」と言える状況までもっていかないと。もし、アイヌ語を和人の研究者から教わっていたら、そこまでは考えなかったでしょう。アイヌの師匠に出会えたのは、私にとってすごくラッキーでした。

―ひいおばあちゃんに「アイヌ語を誇りをもって話せる時代になったんだよ」と言えたらいいですね。

それが理想だけど、いまはまったく言えないので。だから、アイヌ語を学びだしたときとは別のフェーズでも頑張らないといけないんです。私の世代や下の世代がアイヌ語を取り戻す行為が、本当に自分たちの望むことであり、自分たちの尊厳を損なわず、幸せであると言い切れるまで。

―今回の展示で設けるセーフスペースについても教えてください。

シドニー・ビエンナーレに出たあと、ディレクターのブルック・アンドリューさんが、いろんな先住民のアーティストやキュレーターと話をする場をつくってくれたんです。自分の置かれている状況や、属しているコミュニティ―をめぐる問題を共有でき、何を話しても大丈夫な場で、そこにいるとすごく安心できたんですよね。いま、自分ひとりで抱えている重たいものを、なくそうとするんじゃなくて、ひとつ持ってくれる人がたくさんいてくれることのかけがえのなさを実感しました。「私、ここに安心しているから、入ってきたあなたも安心していいです」みたいにしていけば、私にとっての安心も少しずつ増えていくと信じていて。私が絶望しきってしまわないためにも、安心できる場所をつくりたいんです。

―そのセーフスペースに入る人のためのパスポートが用意されてますね。

はい。パスポートにはアイヌについての質問が書かれていて、署名をしてもらいます。質問に対してはイエスと答えられなくてもよくて、知っているか知らないかを意識するだけでいいんです。知らなかったことを自覚して、その方なりの負荷がかからないやり方で知っていってもらうのがいいと思っていて。

でも、その方が、いざアイヌのことを何か知りたいってなったときに、たとえば、ほかのアイヌの人たちに「マユンキキさんの展覧会で知ったんですけど─」みたいに言っても、みんなキョトンとすると思います。パスポートに書かれているのは、いま私に起きていること、アイヌの私が考えていることについての質問ですから。そこで私はアイヌを代表して語っていないんです。

南雲麻衣

―南雲さんが「音声日本語」「日本手話」というふたつの言語にどのようにして出会ったかをお聞かせください。生まれたときは聴力があったんですよね。

親曰く、おしゃべりな子どもだったそうです。3歳半で失聴して補聴器を装用しましたが、当時の補聴器はやっと音だとわかる程度の効果しかなく、言葉は入ってきませんでした。それでろう学校幼稚部に入り、口話訓練を受けました。訓練はとても厳しかったのですが、発音や舌の使い方は記憶していたので、覚えが早いと言われましたね。

その後、もっと聞こえる手段がないかと探していた母の勧めで人工内耳を脳に埋め込む手術を受け、聞き取り・発音の訓練を積みました。最初に聞いたのはエアコンのゴーという音で、うるさくて驚きました。はじめはそんな日常のさまざまな音に敏感に反応していましたが、やがて気になる度合いが減り、聞きたい言葉だけ選んで聞けるようになっていくんですよね。

小学校はふつうの学校に通いました。ろう学校では同級生はひとりだけでしたが、聞こえる人の学校のクラスは30人ぐらい。こんなにいっぱいいるんだと驚いて、最初は緊張して静かにしていましたが、慣れてきてからは会話するようになりました。小学校3年生のとき、ひとりずつ教室の前でレポートを発表する授業があり、私の番になって話しだすと、みんなの視線が集まってくる。ほかの生徒のときにはなかったことです。そのことがあってから私は自分が難聴者なんだと意識するようになり、自信を喪失しました。会話をしても相手が何を言っているのかわからない。その恐怖心から、話さなくなってしまいましたね。

―先生からほかの生徒に南雲さんの聴力についてフォローとか説明はなかったんですか?

先生が説明したかどうかは定かではありません。みんなは気づいていたと思うのですが。

そして中学・高校と進み、みんな成長するにつれ、恋愛や人間関係など、話す内容も深くなります。いつも取り残されている感じがしていました。小学校の同級生のほとんどが、一緒に中高に上がるので、みんなが私の耳のことを知っています。でも、私だけ話しかけられない。私から話しかけることはあっても、私に対しての語りかけはない。「南雲さんは言ってもわからないから」と、みんなは遠慮していたんだと思います。やる気を削がれ、友達づきあいが苦手になり、ポジティブになれない状況でした。

そんなとき、ろう学生たちに会いました。大学生のろう者が高校の手話講座に来たんです。そのとき初めて手話を目にしました。なんかわかるんですよ。手話はわからないけれど、ふわっとわかるんです。なぜなら、表情がすごくはっきりしているから。音声言語が私の母語ですが、それは弱い光のような状態で、「何か違う。自分の言葉じゃない」と感じていました。でも、高校で手話を目にして、これが私に必要な言語だと気づいたんです。そして大学で手話を身につけました。

―お母さんは南雲さんが手話を使うことに何かおっしゃってましたか?

家に帰ると私は音声言語で話しますから、母は手話を見てないと思うんです。手話を使っていることを話すと、「へぇ~、手話って言うんだ」みたいな反応ですね。でも大学2年生のとき、ろう者で映画監督の今井ミカさんからのお誘いでヨーロッパに行き、向こうのろう者たちと会ったんです。それまでは音声と手話を切り替えていたけれど、その2週間の旅のあいだは手話漬けでした。でも、帰国して母と会い、楽しかったと話すと、発音の能力が落ちたと言われたんです。そのときの母の表情をいまでも覚えています。なんとも神妙な面持ちというか……。母よりも父のほうが心配していて、「手話のせいか」みたいな反応がありました。やっぱり親たちは聞こえる人で、私とは違うんだと実感しました。自分の人生は自分で決めると言ったのを覚えています。

―今回の作品のタイトルは、「母語の外で旅をする」です。旅をして戻ってくるんでしょうか?

うん、そうですね。旅から戻って、また旅に出て、戻ってきて、また出て─みたいな感じです。私自身は、言語の選択によってその人をラベリングしてしまうことは不要だと考えています。そうじゃなくて、これで私は生きると自分で決めたことを尊重して、もっと自由に旅をしていいんじゃ

ないか。そんなスタイルが自分としては心地いいんです。今回の作品で母とテーブルを挟んで座ったとき、いまだから話せると思いました。昔のままだったらどうだろう。母語できちんと向き合えたかなって。手話のおかげで、自分のなかの母語を育てあげることができた。そんな感覚があるんですね。手話によって言語の基盤がわかり、母語をうまく使えるようになったんです。

新井英夫

―新井さんの肩書は「体奏家(たいそうか) 」ですね。この言葉に込めた思いをお聞かせください。

まず、自分がしていることをなんて伝えたらいいんだろうという思いがありました。僕の表現は即興的なことが多い。自分のなかで沸きおこったものをそのままアウトプットしたら、それがダンスや演劇、音楽、美術になる。それらすべてが身体表現だと気づいて、体を奏でる「体奏家」を思いつきました。

これには元ネタがあります。野口体操と出会い、自分がやってきたこと、これからやりたいことが明確になりました。設定した型やゴールに自分を合わせるのではなく、自分の体の声に耳を傾ける。それが表現の始まりなんだと学びました。野口体操に恩義を感じ、「たいそう」の音を生かしたんです。

僕はALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気で、直接的に体を動かす表現がいままで通りにはできなくなってしまうかもしれないけれど、脳も体の一部だし、生きているあいだは体奏家を名乗ろうと考えています。

―いまの体の状況をお話していただけますか?

ALSに罹患して2年ちょっと。お医者さんが「ALSです」と確定診断してからは1年半ぐらい。ALSは確定が難しいんです。原因がわからないから、ほかの病気の可能性をひとつずつ消していく。だから障害者手帳を取ったり、難病指定で医療費が少し免除されたりといったところにたどり着くまでが大変で。2年から5年ですべての筋肉がダメになって呼吸できなくなると言われていて、いまの僕は道半ばなのかな。ダンスの表現をしている人間なのにほとんど歩けない。手も半年前までは上がったのが、頭を掻くのもままならない。食事もお茶碗を持ってもらう。風呂もトイレも着替えもひとりでできなくなった。ただ、呼吸と発声と飲み込みには大きな障害が起きていないので、こうしてお話はできます。

―いまのうちにできることをしておきたいというお考えがあると思います。映像作品《即興ダンス日記》についてお聞かせいただけますか?

本当に踊る試みで、いまの体で何ができるかを、半分日記、半分エクササイズで試しています。ここに壁があったな、風が吹いていたな、こんな光だったな、足の裏で砂利を踏んだな─そういうのが記憶に残る。前から好きだったけど、病気も重なって、変化する体も撮っておいたらいいかなって。踊っているときは毛穴が開いて、まわりからすごい入力しやすい状況になるんです。障害で失われた機能を補うのは、科学技術だけではなく、こちらのモードを変えることで可能な部分もあるんです。

話が戻りますけど、野口先生は「感覚こそ力」という言葉を残しています。力の本質は出力するための筋肉の量ではなく、入力する感覚にあるという。まさにそうだと思います。今回の《からだの声に耳をすます》では、野口体操の言葉にも触れようと考えています。

―ゆっくり観てもらえるといいですね。

畳に寝っころがってください!

―新井さんも展示室にいたりするんですよね?

僕は障害をもった人たちとワークショップをやってきたけど、自分が障害者になっちゃった。それでもこういう活動を積極的にやれている原動力は、僕が出会った人たちの存在です。自由に言葉を発せられなくても、その人のなかに言葉が湧き起こってくる源泉が間違いなくあることを非言語のワークショップで感じていたからなんです。僕も声を出せず、手で文字を書けなくなるかもしれないけど、体の奥底にある言葉の泉は枯れない。ここで自分が絶望したら、それを教えてくれた人たちの存在を否定することになってしまう。その人たちだって生きてたよ、ちゃんと。それは表現やワークショップに関わってきた人間として、そしていま、自分もそっち側にいる人間として、伝えていきたい。

相模原の事件の背景にあるような優生思想にどうやって答えを出していくのか。これは福祉の現場で働く人たちの喉に刺さった骨みたいになっている。最近、安楽死を合法化した国で起きていることを書いた本を読みました。安楽死をしたい人と、安楽死を勧める医者の増加が止まらないんですって。極端な例だと、恋人に振られたつらさから逃れる方法として安楽死を選べてしまう。安楽死がビジネスとして成立してしまうと、政府も社会保障費を減らすためにその流れに安易に乗っかるでしょう。

そして、安楽死した人から摘出した臓器ビジネスが成立する。いまの日本では政治家までが、年寄りは早く死んで、若者に社会資源まわしたほうがいいと平気で言いますよね。高齢者や障害者を顔の見える存在として感じていないから、そうやって命の値踏みをする。だから僕のような病気の人はもっと街に出て、存在を示したほうがいいと思います。

金仁淑

―今回展示していただく《Eye to Eye》は、子どもたちのビデオポートレートが並んでいるのが印象的

ですね。

Eye to Eye》はタイトルの通り、目と目を合わせることから始めるコミュニケーションの過程を視覚化した作品です。舞台は滋賀県のサンタナ学園という、日本に移住したブラジル人の子どもたちが通う学校です。0歳から18歳までいて、大家族のように過ごしています。

私の作品は、プロジェクトで自分が体験したことを、お客さんに追体験して考えてもらう、体験型のインスタレーションが多いんです。今回も見つめ合うっていうのを体験してもらう。実際にみんながサンタナ学園を訪ねるのは難しいけど、作品を通して、彼らと見つめ合ってほしい。見つめたり、見つめられていたり。2022年度に撮影したものを昨年の恵比寿映像祭に出し、その後も継続して子

どもたちに出会っていますので、今回は少し成長した彼らのポートレートも加えて再構成したものを展示します。

―サンタナ学園は、日本の一般的な学校生活とは少し違いますね。

そう、校庭がないとか、まず朝ごはんが出るとか。自分が当たり前だと思っていたことは、当たり前じゃないのでは?と問い直しを繰り返す体験でした。でも、それって人を知っていくうえでよくあることですよね。たとえ考えが異なる相手でも、だんだん距離が縮まり、仲良くなったりする。

―登場する人たちの愛らしさが印象的です。

仲良くなってから撮っていますから。そうなるにはもちろん時間がかかりました。私の作品には、自分が出会って魅力的だった人たちが出てるんですね。だから、その魅力に、観に来てくれた人にも出逢ってほしいって強く思います。

作品のなかで自分のことを話してもらっていますが、私がシナリオを書いているわけではなく、その人を支配したりコントロールしたくないから、何を話すのかは本人に委ねています。私の仕事は、彼らがカメラの前で最大限自由にふるまえるように準備すること、そして彼らの個性を際立たせてビジュアル化することです。だから、関わってくれる人が違えば、異なる内容の作品になると思いま

す。そのために丁寧なコミュニケーションが必要なのです。どちらかというと本当は、プロジェクトの過程自体が、作品なのかもしれないですね。でもその過程はみんなが見られるわけじゃないから、それをビジュアル化する仕事を自分が請け負っているという感じですね。

―今年はアートブックをつくったんですね。

ブラジル人コミュニティで暮らす人たちは、日本語がわからなくても生活できるけど、日本社会との接点が少なかったりします。子どもたちと滋賀県のアートスポットを訪ね、人や場所との出逢いを収めた本をつくれば、自分の住む地域を見つめるきっかけになるかもしれないと思い制作しました。 日本語が母語の方も、本のなかで彼らと見つめ合うことができます。共にした経験を、本という形状の

作品として、彼らの手に残すことにも意味がありました。

―プロジェクトに並走してくれているポルトガル語と日本語の通訳さんの存在も重要ですね。

カマルゴ・ミドリさんという、子どものころにペルーから来た方です。ミドリさんはプロジェクトを応援してくれる心強い存在であり、子どもたちにとってはやさしいお姉さんなんです。私たちの質問を子どもたちが答えやすい言葉に置き換えて伝え、ミドリさんから返ってくる答えも置き換え方にやさしさが感じられる。《Eye to Eye》のSide: Aは、私とミドリさんと子どもたちのやりとりをそのまま流しています。 相手を思いやることで言葉や感情が伝わる。その証として残したかった。表情や声のトーンを楽しんでもらうため、あえて字幕をつけていません。

―通訳も含めて、コミュニケーションの過程を伝える作品なんですよね。

そうです。「どういうこと?」って聞き返したり。知りたい気持ちが相手に伝わって初めて、恥ずかしがらずに話してくれる。みなさんにもそんな積み重ねを体験してもらいたくてつくりました。

私が作品をつくっている理由は、社会問題そのものを批判するためではありません。人々にはさまざまな考えがあって、互いに尊重し合って一緒にいる、そのこと自体から解決策を見出せる気がするんです。これはサンタナ学園に限らず、人と人との関係すべてに当てはまります。ただ問題視するだけではなく、よりよくなるためにどうしたらいいのか、共に考える契機になればと思っています。

2024年418日(木)―77日(日)|東京都現代美術館 企画展示室1

主催=東京都歴史文化財団 東京都現代美術館

リーフレット制作=東京都現代美術館

インタビューの話し手=ユニ・ホン・シャープ、マユンキキ、南雲麻衣、新井英夫、金仁淑

インタビューの聞き手=八巻香澄(東京都現代美術館)

編集=浅原裕久|手話通訳=村山春佳、清水聖果|デザイン=小林すみれ

©Museum of Contemporary Art Tokyo 2024

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